「いや……」
　薄暗い鍾乳洞。それはまるで巨大なドラゴンに飲み込まれたかのような恐怖。幾重にも並んだ鍾乳石の柱──石筍は、乳白色に妖しく艶かしい光を放つドラゴンの牙歯。かすかに届く地下水脈の流れは、さしずめ、腹をすかせたドラゴンの溜飲。洞窟の奥からは吸い込まれそうな漆黒の闇が、胃袋へと誘うように迫ってくる。
　そして、そこに追い詰められた少女が一人。
　「やめて……」
　薄い生地の上品なワンピースは、泥と汗と血に汚れ、破け、白い肌にかろうじて張り付いていた。もはや、衣服としての機能は果たしていない。小刻みに震える白い脚も、膨らみかけたまだ少女の乳房も、かぼそい腕でようやく隠されていた。小麦色に流れ落ちる柔らかな髪。そこからのぞく特徴的な耳が、彼女をエルフだと知らせてくれる。誇り高きエルフの少女が、三人の男たちのいやらしい視線という凌辱に耐えていた。もちろん、飢えた男どもがそれで満足するわけがない。
　絶え間ない水の流れが何万年という時間をかけてつくり出した自然の地下坑道が鍾乳洞である。少女が背を押しつけている滑らかな壁面にもかすかに水が流れ、おびえ震える少女を冷たく濡らす。
　ばしゃ。
　男が大げさに水を撥ね上げて、一歩進んだ。歪んだ笑みを張り付け、濁った目で少女を嘗めまわす。少女は鍾乳石の壁に背を押しつけたまま、数歩、闇に向かって後ずさる。少女が身じろぎするたびに、まだ成長を始めたばかりの幼い乳房が男たちの前にあらわになった。男どもの口許が大きく歪む。悦んでいるのだろう。気高きエルフの少女は、恐怖よりも、むしろ屈辱に震えていた。男を睨みつける澄んだ碧色の瞳に涙が溢れる。しかし、気丈な少女の決死の表情も、男どもにとっては、淫らな欲情をそそらせるものでしかない。
　いっそ舌を噛もうかとも思った。しかし、遺体が受けるであろう辱めを思うと、エルフの誇りが許さなかった。洞窟内では風の精霊シルフたちの助けも呼べない。彼女は気づいていないが、どちらにせよ、男たちはすでに結界をつくって、魔法を無効にしていた。彼らはプロだったのだ。エルフの娘を捕らえ、その魔力と魂とを封印して売り飛ばすのである。なにせエルフは寿命が長い。短い一生の人間にとって、エルフの娘はいつまでも若く瑞々しい。闇の世界では、人間よりも遥かに美しく気品に溢れるエルフの娘は、一生遊んで暮らせる金で取り引きされた。
　もちろん少女はそんな裏の世界のことは知らない。しかし、誇り高きエルフの少女は覚悟した。もし拉致されるようなら、洞窟から連れ出されたところで風の精霊シルフを呼ぼう。今の彼女には、男どもから逃れる力はないが、自分自身を無様に切り裂くだけの力は残っているはずだ。醜く切り刻まれた姿なら、男どもも捨てて行くだろう。そうすれば、恥を晒すことなく、土に還ることができる。
　悲しい選択だった。
　ばしゃ。
　欲望に猛り狂った男が一歩を踏み出しても、少女は、乳白色の滑らかな壁面に背中を押しつけたまま、男を睨みつけていた。もう逃げない。そんな少女の決意を踏みにじるように、男が嘲り笑う。やっと犯せるぜ、手間かけさせやがって。男の醜い顔がそう言いたげに歪んだ。
　ばしゃ。
　少女は細い腕で自分の肩をつよく抱きしめた。森の中ではさらさらと風になびいていた美しい金髪も、天井を覆う氷柱のような石筍から滴る地下水に濡れ、お母さんが縫ってくれたお気に入りのワンピースも、泥と汗と血に汚れたぼろきれとなって、少女の柔肌にかうじて張り付いていた。それでも、少女の碧の瞳には強い意思の光が消えてはいなかった。神々しい輝きだった。水が数万年の歳月をかけて刻んだ乳白色の地下迷宮。そんな神秘的な鍾乳洞の中で、誇り高きエルフの少女は、足元のかすかな地下水の流れに素足を晒しながら、立っている。傷だらけの女神は、最期の瞬間まで、気高く、誇りを捨てず、威厳にみちた風格を漂わせていた。
　ばしゃ。
　その、最期の瞬間。
　男の汚れた手が、ついに聖女の肩を掴む。
　そのまま衣服を剥ぎ取る。少女の裸身があらわになった。
　そこまでだった。
　「うおおおおー！！」
　雄叫びが鍾乳洞に響きわたった。軽装備の若い騎士が駆け抜ける。ロングソード一閃。エルフの少女に手を掛けていた男を両断。すぐさま振り返り、二人目の男をも叩き切った。舞踊を思わせる素早く流麗な剣捌きである。闇の忍びと言えども、突然現れた若き騎士の圧倒的な強さの前に、為す術もない。最後の男は、洞窟の奥へと逃げ出した。
　「逃がすか！」
　騎士は腰からダガーを引き抜くと、逃げる男に投げつける。闇を切り裂くダガーは、次の瞬間には男の背に突き刺さっていた。若き騎士は用心深く三人の死体を調べ終えると、そこで初めて震えるエルフの少女の存在に気がついたというふうに、わざと軽い調子で話しかけた。
　「こいつらをずっと追ってたんだよ。こいつら、闇の組織では結構有名な三人組でさ、淫魔の三使徒とか呼ばれて恐れられていたんだ」
　胸元でしっかりと手を組んだまま、まだおびえている少女に、騎士は優しく自分のマントを掛けてあげた。なんとなく間がもたなくて、なるべく少女に目を合わせないように、ぎこちなく話し続ける。さっきまでの戦いとは別人のような、どぎまぎした態度に、少女はかすかに緊張を緩めていた。
　「淫魔の三使徒と言えば、狡猾でめちゃくちゃ強いって評判だったんだけど、あっさりだったね。きっと、君にすっかり気を奪われていたんだよ、あはは……」
　「ああああ！」
　小さな胸の中に押し潰していたものが、一気に堰を切って溢れだしてきた。まだ恋も知らない少女にはあまりにも痛すぎる誇りと決意から解き放たれた瞬間、少女は若き騎士の胸に飛び込んで、泣き崩れた。
　「あ、あの、僕はリースって言うんだ。いちおう、ホッケンハイムの騎士なんだけど……」
　リースと名乗る騎士は、どこにやっていいのか分からずに両手を持て余していた。ふと、落ち着かない視線を下にやると、金色に流れる髪が目に飛び込んできた。自分の胸に顔をうずめて細い肩を震わせている気高きエルフの少女は、髪の毛からつま先までぐしょ濡れで、白い素肌を生まれたままの姿で晒していた。リースはおそるおそる少女の肩に手を置いた。少女の号泣は嗚咽になっていた。リースはそんな少女の髪を優しく撫でてあげることしかできなかった。
　少女がゆっくりと顔をあげた。額に張りついた前髪、碧色に潤んだ瞳、うすく開かれたくちびる。リースは一瞬心臓を握り潰されたように感じた。
　「あ、いや……」
　吸い寄せられたようにリースは少女のくちびるを塞いだ。そして、乳白色の滑らかな壁面にもたれる少女を優しく抱きしめ、ふたりは縺れるように、足元のかすかな水の流れの中に身をすべらせていった。

　「──ってなわけだったのよ」
　「冗談じゃないわよおー！！」
　完全武装に身を包んだ二人のエルフが言い争っていた。母と娘と思われる二人のエルフを、若い戦士が慌てて仲裁しようとしていたが、焼け石に水である。少し離れた場所では、髭面のドワーフが小さな体に不釣り合いな巨大槌を構えて、不機嫌そうに舌打ちを繰り返していた。
　「これだからエルフの親子なんかとパーティーを組むのは嫌だったんじゃ。幻龍に祝福された母娘だか何だか知らんが、勝手で気まぐれなエルフは、おとなしく森の番人をしてるのがお似合いだ。戦略的な戦いにゃ、足手惑いなんじゃよ」
　「ふざけないでよね！　王国中から腕の立つ冒険者を集めて邪悪なコンラッドの神殿に立ち向かおうっていうのに、ウォレクはともかく、なんでドワーフの老いぼれなんかがついて来てるのよ！！」
　「わしゃ、こんな小娘が選ばれた方が不思議じゃがな」
　「まあまあまあ……」
　一応、出発前に宮殿での『悪しきコンラッド討伐のための特別パーティー結成記念式典』とかいう訳の判らない催しで、国王からリーダーを拝命していた若い戦士ウォレクが困ったような顔をして間に割って入った。こうしたいざこざはお互い馴れていたから、誰かが止めれば、二人ともぶすっと黙り込んで、それ以上騒ぎが大きくなることはない……はずなのだが、ついうっかりウォレクが質問を続けてしまった。
　「それにしても、オリヴィエ。クラウスがハーフエルフって、本当なのか？」
　エルフは純血を重んじる種族である。ましてや、エルフにとって人間は最も愚かしい生き物だ。そんな人間との混血であるハーフエルフが、どれだけ侮蔑と迫害の対象となるかは容易に想像できる。クラウスと呼ばれた小柄な魔導士は、オリヴィエと呼ばれた美しい召還術師に烈火の如く詰め寄った。
　「そうよ！　わたしは正統なエルフの一族じゃないの！？」
　「あら、さっき話した通りよ。そのときできた愛の結晶が、あ・な・た。ああ、思い出すわ。愛しいリースのあの逞しい胸板……」
　「この、くそばばあ〜」
　すっかり夢心地のオリヴィエ。クラウスは頭を抱えてうずくまった。一人冷静にウォレクが尋ねる。
　「じゃあ、クラウスの父さんは、どうなったんだ？」
　怒り心頭のクラウスは髪を振り乱して、オリヴィエに向き直って、手にしていたロッドを突きつけた。
　「そうよ！　わたしにもお父さんがいるはずだわ！　わたし、お父さんに会いに行きたい！　物心つく前から、お母さんの冒険の旅に付き合わされて、友達もつくれないで、寂しくて、でも、お母さんのために、こんな有名な魔導士になっちゃったんだからね！　でも、もういや。普通の女の子になりたい。教えてっ！！　わたしのお父さんはどこにいるの！？」
　娘の言葉に凍ったように固まったオリヴィエは、みるみる表情が崩れ、ついにはだだをこねる子供のように泣きだしてしまった。
　「うわーん！　あなたが生まれる前に、リースったら、子猫をかばって馬車に轢かれて、死んじゃったのぉ〜！」
　「そんなバカなあ！」
　「あのぉ〜、お取り込みの最中で申し訳ないんですけれど、わたくしに何か用事があったんじゃないんでしょうか？」
　「うっさいわね！　いまはそれどころじゃないのよ！　あなたは、さっさとやられちゃいなさい！！」
　怒りに震えるクラウスがロッドを振りかざすと、揺らめくオーラが彼女を包んでいった。そして、かわいい咆哮。
　「ギラ！　メテオ！　ナイトメア！　ブラスティート！」
　どっかーん。
　黒い法衣の男は、紙屑のようになってその場に崩れた。
　「つ、つよい。しかし、勝利の余韻を味わっていられのも今のうちだけだ。コンラッド討伐だと？　わたくしは闇の総統バルテルス様の手先の一人にすぎん。わたくしが死んでも、闇の勢力は貴様らを混沌と無秩序の暗黒世界へと追い詰めるであろう。うわっはっはっは……ぐえっ」
　とどめは無言のクラウスがコンラッドの頭をロッドで殴りつけて終わった。いや、コンラッドの最後の言葉が真実ならば、ウォレクたちの旅はまだ終わらないのだろうか。
　「そんなことよりも、わたし、本当にハーフエルフなの！？」
　「ふん。エルフだけでも一緒にパーティーを組むのは嫌じゃったと言うのに、この上、ハーフエルフだ？　もう、やってられんな。儂は抜けさせてもらうぞ」
　「それにしてもバルテルスとかいう奴も倒さないと、王宮から金はもらえないのかなあ。それは困るなあ」
　「うわーん、リースぅ〜！」

　夕陽に染まった邪悪なコンラッドの神殿で、ウォレクたちのパーティーは、それぞれの想いを胸に、途方に暮れていた。

　　　次回予告

　邪悪なるコンラッド卿を激戦の末に倒した精鋭ウォレクのパーティー。王国の平和を取り戻したと思われたまさにその時、明らかにされたクラウス出生の秘密！　母娘の深い愛が揺らぐ時、鋼の結束を誇っていたパーティーに亀裂が走る！　そしてコンラッドの最期の不気味な言葉……。心に深い傷を負ったクラウスとオリヴィエは立ち直れるのか？　闇の総統バルテルスとは？　苦悩するウォレクたちに最大の危機が迫る！　愛と勇気の冒険ファンタジー大作『ホッケンハイムの聖騎士』。次回『妖魔の陰謀』にご期待ください！！